Loading...
寺田バレエ・アートスクールと
キーウ国立バレエ学校との交流の歴史
寺田バレエ・アートスクールは30年前よりキーウ国立バレエ学校と姉妹校を提携し、ウクライナとの文化交流に貢献しています。
キーウ国立バレエ学校との交流の歴史
30年前、1975年の春にソビエト連邦ウクライナ共和国(当時)のキーウ国立バレエ学校校長ガリーナ・N・キリロワ女史(故人)、R・クリヤービン氏(故人)、寺田バレエ・アートスクール校長寺田博保(故人)、その夫人で現校長の高尾美智子によって、両校の交流は始まり、キーウ国立バレエ学校と本校との間に姉妹校が締結されました。
その頃のキーウはソ連邦の一都市。住んでいる日本人もまだおらず、日本大使館があるのはモスクワ…という時代。日本からキーウ(ウクライナ)へ旅行する人さえ珍しかったのです。(今でもまだ、キーウの町に日本人は数十人しか住んでいないのですが。)そのような時代に31名の子ども達と引率者9名の合計40名でキーウ国立バレエ学校に短期研修に向かったのでした。これは、現地でも京都でも大きなニュースになりました。
それ以降、78年まで毎年、80年からは2年に一度のペースで、日本の春休みを利用してキーウでのバレエ研修を行っています。
一方,キーウ国立バレエ学校の優秀生徒を京都に招き、合同コンサートを行って来ました。現在、世界中のバレエ団で活躍する優秀なダンサーたちが、バレエ学校生徒として子どもの頃に寺田バレエ・アートスクールを訪れています。世界を股にかけて活躍するウクライナのダンサーが、初めて海外に出たのは京都の寺田バレエ・アートスクールだったということもあるようです。
2005年8月公演の「くるみ割り人形」で、ラストのグラン・パ・ド・ドゥを踊ったデニス・マトヴィエンコ(現:新国立バレエソリスト)もそのひとり。 今は東京国立バレエ劇場で踊る彼も、1993年の夏に、やはり今はロンドン・ロイヤル・バレエで活躍するイワン・ペトロフと共に寺田バレエを訪れました。銀閣寺を散策する姿などがスナップとして残っていて、微笑ましいエピソードとなっています。
このように継続した交流の中で、1986年にチェルノブイリの悲しい事故が起きました。友人たちの無事を確認するため高尾美智子はすぐにキーウへ駆け付けました。それはよりキーウの人々との絆を深めることになりました。その翌年、寺田宜弘が11歳でキーウへ単身バレエ留学。1年生〜8年生の正規の課程を終え、1995年にキーウ・バレエに入団しました。現在もバレエ団ソリストとして現地で、また世界各国への公演旅行などで活躍しています。寺田宜弘はロシア正教会より聖スタニスラフ勲章を受章し、またウクライナ功労芸術家の称号を授与されました。そのことから今では、バレエ学校のみならず、バレエ団との交流も深まっています。
また、寺田宜弘のみならず、川崎亜香里、木下嘉人など寺田バレエ・アートスクールからキーウ国立バレエ学校への特待留学を終え、ウクライナのバレエ団などでソリストとして踊っております。また、岩崎純子、長谷川景子、のように短期ではありますがキーウバレエ団でコールドを勤めたものも出て参りました。
キーウバレエ団を代表するアーティスト、立ちアーナ・ボロビッツ、エレーナ・フィリピエワ、ロイヤル・バレエ団のコジョカル・アリーナを始め多くのバレエダンサーが世界のあちこちでソリストとして活躍しています。これらを含め、みな寺田バレエの神髄であるバレエ教育の素晴らしさであり、私どもはそれを誇りに思っております。
その頃のキーウはソ連邦の一都市。住んでいる日本人もまだおらず、日本大使館があるのはモスクワ…という時代。日本からキーウ(ウクライナ)へ旅行する人さえ珍しかったのです。(今でもまだ、キーウの町に日本人は数十人しか住んでいないのですが。)そのような時代に31名の子ども達と引率者9名の合計40名でキーウ国立バレエ学校に短期研修に向かったのでした。これは、現地でも京都でも大きなニュースになりました。
それ以降、78年まで毎年、80年からは2年に一度のペースで、日本の春休みを利用してキーウでのバレエ研修を行っています。
一方,キーウ国立バレエ学校の優秀生徒を京都に招き、合同コンサートを行って来ました。現在、世界中のバレエ団で活躍する優秀なダンサーたちが、バレエ学校生徒として子どもの頃に寺田バレエ・アートスクールを訪れています。世界を股にかけて活躍するウクライナのダンサーが、初めて海外に出たのは京都の寺田バレエ・アートスクールだったということもあるようです。
2005年8月公演の「くるみ割り人形」で、ラストのグラン・パ・ド・ドゥを踊ったデニス・マトヴィエンコ(現:新国立バレエソリスト)もそのひとり。 今は東京国立バレエ劇場で踊る彼も、1993年の夏に、やはり今はロンドン・ロイヤル・バレエで活躍するイワン・ペトロフと共に寺田バレエを訪れました。銀閣寺を散策する姿などがスナップとして残っていて、微笑ましいエピソードとなっています。
このように継続した交流の中で、1986年にチェルノブイリの悲しい事故が起きました。友人たちの無事を確認するため高尾美智子はすぐにキーウへ駆け付けました。それはよりキーウの人々との絆を深めることになりました。その翌年、寺田宜弘が11歳でキーウへ単身バレエ留学。1年生〜8年生の正規の課程を終え、1995年にキーウ・バレエに入団しました。現在もバレエ団ソリストとして現地で、また世界各国への公演旅行などで活躍しています。寺田宜弘はロシア正教会より聖スタニスラフ勲章を受章し、またウクライナ功労芸術家の称号を授与されました。そのことから今では、バレエ学校のみならず、バレエ団との交流も深まっています。
また、寺田宜弘のみならず、川崎亜香里、木下嘉人など寺田バレエ・アートスクールからキーウ国立バレエ学校への特待留学を終え、ウクライナのバレエ団などでソリストとして踊っております。また、岩崎純子、長谷川景子、のように短期ではありますがキーウバレエ団でコールドを勤めたものも出て参りました。
キーウバレエ団を代表するアーティスト、立ちアーナ・ボロビッツ、エレーナ・フィリピエワ、ロイヤル・バレエ団のコジョカル・アリーナを始め多くのバレエダンサーが世界のあちこちでソリストとして活躍しています。これらを含め、みな寺田バレエの神髄であるバレエ教育の素晴らしさであり、私どもはそれを誇りに思っております。
ウクライナ・キーウについて
ウクライナ・キーウについて
ロシア諸都市の母・キーウ
キーウは、建都以来1500有余年の歴史をもつウクライナの首都で、9世紀に東スラブ地域では初の国家・キーウ公国が形成された重要な地域でした。これが後のロシア帝国の起源といわれており、「キーウはロシアの都市の母」といわれる由縁です。ドニエプル川沿岸の7つの丘に広がる大変美しい町で、聖ソフィア寺院など歴史的建造物が点在し森と公園の都ともいわれます。
豊かな自然・肥沃な国土
ウクライナの国旗が青い空と黄金色の麦畑を表しているように、自然に恵まれたウクライナの土地は非常に肥沃で、ほとんどの農産物を自給し、独立後は輸出量も年々増えてきています。現在では“ロシアの穀倉地帯”に替わり“ヨーロッパの穀倉地帯”とよばれるようになりました。ボルシチやピロシキはウクライナ料理を代表するものですが、特にボルシチは20〜25品目の野菜を使うという、農産物の豊かな国ならではの料理でしょう。また鉱物も多く産出し、鉄鋼業も盛んです。
穏やかな気質
自然を慈しみ、大地に親しむウクライナ人は、戦いを好まない穏やかな国民性を持っています。
文化・芸術の中心
ウクライナの主な都市には必ずオペラ・バレエ劇場があり、バレエ、音楽が盛んです。特にキーウのシェフチェンコ記念オペラ・バレエ劇場からは世界的なアーティストが輩出されています。音楽では、プロコフィエフ、ホロビッツ、リヒテル、文学では、ゴーゴリー、シェフチェンコ、ブルガーコフなどがウクライナ生まれです。近年では空手、書道、俳句、漫画などの日本文化に興味を持つ人も増えています。
また、スラブ民族でありながらロシアとは異なる文化を持つのは、周辺のポーランド、黒海・地中海、アジアなどのさまざまな影響によるものです。
京都キーウ交流の会
1.パンフレット,ニュースレターの刊行
2.ウクライナ等関係者を迎えての交流会等の実施
3.ウクライナの人々との交流を深める文化、芸術事業等の紹介及び実施
①講演会
②ミニ講演会及び勉強会(ウクライナを学ぶ等)
③バレエ等の音楽会
④写真展
⑤伝統工芸、食文化
4.総会の開催(年1回)
5.その他メンバーがウクライナに親しみを感じ、好きになる事業の開催
2.ウクライナ等関係者を迎えての交流会等の実施
3.ウクライナの人々との交流を深める文化、芸術事業等の紹介及び実施
①講演会
②ミニ講演会及び勉強会(ウクライナを学ぶ等)
③バレエ等の音楽会
④写真展
⑤伝統工芸、食文化
4.総会の開催(年1回)
5.その他メンバーがウクライナに親しみを感じ、好きになる事業の開催
[会員募集中]
お問合せ・お申し込みは
京都キーウ交流の会 事務局
〒606-8311 京都市左京区吉田神楽岡町8-180
寺田バレエ・アートスクール内
TEL075-751-7944/FAX075-752-1228
京都キーウ交流の会 事務局
〒606-8311 京都市左京区吉田神楽岡町8-180
寺田バレエ・アートスクール内
TEL075-751-7944/FAX075-752-1228